月末まで一万円

藤間 紫苑

 今日は七月の二十五日、日曜日。給料日である八月一日は日曜日だから、支給日は七月三十日金曜日。二十五、二十六、二十七、二十八、二十九、三十。三十日は早朝ダッシュして銀行のキャッシュディスペンサーに行くとして、今日を含めて五日間ある。
 それなのに生活費が一万円を切ってしまった。
 お財布の中には百円をきった銀行の明細と、バラのお札(昨日万札をくずしたから九千円分?)が入っている。あと小銭が少し。一体、この金額でどうやって五日間を過ごせというのか。
 どうする俺。もしかしてすっげぇダメ人間なんじゃないだろうか。
 一体、お金の使い道の何がいけなかったのだろうか。昨日までは二万円以上残っていたのに、ミキモトの前を通った時に目に入った真珠のインビジュアルネックレスがとても可愛くって、衝動買いしてしまった事がやはり原因だろうか。いや待てよ、今月は友達とよくディナーコースを食べに行った事とか、昼御飯にうなぎを食べ過ぎたとか(やたらと蒸し暑い日が続いたんだよな)、うーん、それよりも夏だしってことで白のトップスとスカートを買った事が一番の原因なんじゃないだろうか。その、とても可愛かったんだよな。出会いっていうか、俺様を呼んでいたっていうか。
 俺はそんな事を西池袋公園のベンチに座りながら、漠然と考えていた。本当は丸井を回って、東武百貨店を見て、西武百貨店に立ち寄って、ビックカメラを覗いて、三越のアフタヌーンティーでスコーンを食べて帰るっていう、いつもの休日を過ごそうかと思ったのだが、お金が無いことにはたと気付き、丁度通り過ぎようとしていた西池袋公園で休んでいく事に決めたのだ。
 数年毎にトイレから死体が発見されるこの公園に入ったのは、今日が初めてだった。お金が無いって、なんて寂しい事なんだろう。喫茶店に入るんじゃなくって、公園で休んでいるところが辛さ絶頂ってカンジだ。次々とスコーンや紅茶やあんみつやアップルパイが頭の中に浮かんでくる。匂いさえ思い出される。でも生活費は一万円(以下)。……いや、せっかくの休日なのだから、もっとポジティブに考えよう。そうだ、今日のような晴れた日でなくっては、この白いスカートだって着られないし、この格好は屋内より屋外の方が絶対に合うはずだ。今日という日は、まさに夏っていう季節に相応しい日で……でも東京でなかったら、こんな殺人的暑さじゃないような気がする……いや、殺人的暑さだからこそ、街には俺様のようなかーわいい涼しげな婦女子が必要なのだ、必要な筈だ。
 俺は読書している女性の傍(そば)を選んで座っていた。これが俺的エリアだ。独りの女性がベストだが、女性の集団か、女性的な男性の傍でもいい。あっ、でも好みの女性の傍はちょっとダメだ。なんとなく意識してしまうから、恥ずかしい。隣の女性は村上春樹を読んでいるみたいだ。面白いかな、と本を覗き込んでみるが、文字が読める距離ではなかった。読書している女性は暑さでけだるそうにしており、本が面白いのかつまらないのか、表情からは読み取れなかった。
 俺は黒いポーチの中からゲームボーイを取り出し、ポケモンをプレーし始めた。先週、ポケモンの新作が発売されたというのに売り切れていて、未だに買えてない(現物を見た事もない)。俺って可哀相すぎる。まぁ、来週になったら給料も出るし、店にも出回ると思うけど、なんとも情けない話だ。
 イヤホンを着けて音量を上げて、モンスターの経験値稼ぎをする。いつもは喫茶店の涼しい空間でやるのだが、今日はさすがに屋外だけあって暑い。一応木陰に入ってはいるのだが、それでも暑い。つばの広い帽子は木洩れ日を多少は遮ってくれるが、陽が直接当っている部分などはちりちりと音がしそうだ。海にいるときには大丈夫なのに、どうして街中の太陽の光はこんなに熱く感じるのだろう。
 汗が頬をつーっと流れたので、ポーチの中から慌ててハンカチを出して拭いた。サンダルのストラップにじわじわと汗が溜まっていく。シャーリングのトップスはとても涼しくて、今日のような日に選んで正解だった。たまに吹く風が肩にあたると気持ちがよい。バルーンスカートの下から風が入り込むと、ふわりとスカートが持ち上がって、足元を涼しくする。なんともいいカンジだ。しかし風が吹く時間は短くて、殆どの時間は蒸し暑く、俺は修行僧になったような気分だった。ファンデーションなどとっくの昔に流れてしまっているのではないだろうか。頸(くび)から流れ出た汗は、一旦ネックレスのテグスに遮られてから、胸の谷間へと次々吸い込まれていった。小さな液晶画面の中で愛らしく笑っているピカチューの上に、俺の大粒の汗がぽたり、と落ちた。俺は画面をハンカチで拭き、ゲームボーイから視線を逸らし、溜め息をついた。他の人は暑くないのだろうか。俺はゲームボーイを膝に置いて、公園の中を見回した。
 公園、という場所に来たのは何年ぶりだろう。もう数年前、カノジョと代々木公園にピクニックに行ったのが最後なんじゃないだろうか。代々木公園タイプの広大な公園は別として、東京の、家の近所にあるような小さな公園はどれも暗めだ。きっと建物が高く、その谷間に公園が出来ているからだろう。暗いってだけで俺にとっては自分の陣地ではないってカンジだ。危険度が高く感じられる。別のエリアに入らないのは大人のオンナの処世術ってやつだ。
 西池袋公園はそれでもまだ明るいほうだった。なんとなく周りを見渡して、この公園を俺様エリアにしていく。いろんな人がいた。アスレチックで遊ぶ小学生達(俺もあーゆーの好き)、オヤジ小説に書かれているような黄昏ているサラリーマン達(日曜日も出勤?)、ラクロスしている大学生達(部活の看板まで立ててるよ、オイ)、コンビニ弁当を食べている人達(お互いは他人みたいだけど集まって食べてる)、本を読む隣の女性(単行本を持つ手が暑そうだ)、音楽を聴く人(なんか指揮してる)、公園に住む男性達(女性ってあまりみかけないな)、柵の中で砂遊びをしている親子(なぜ柵?)。
 自分が想像していた以上に、西池袋公園にはいろんなタイプの人が集まっていた。池袋界隈では、サラリーマンは駅構内とビジネス街へ、大学生はビジネス街以外のどこにでも出没し、コンビニ弁当を食べている人達は立食ソバ屋とかにもいて、本を読む人は喫茶店にいて、指揮をする人は……(何処にいるんだ?)、公園に住む人は東京芸術劇場の前にも家を構えているし、親子は子供服売り場にいたりする。でもこの公園にいれば池袋人がみんな見れる。公園内もいわゆるエリア分けはされているのだが、視野の中に全てが入ってきて、なんとも気分が良い。普段はダンボールハウスを見るとひいてしまう俺も、同じ公園内にいると馴染んでくる。もしかしてこれって理想的な日本の姿ってやつなんじゃないだろうか。
 新たな壮年のオヤジが公園にやってきた。パン屑のようなものを地面に撒き始め、次第に鳩が彼の周りに集まってくる。鳩に餌をやるのは、あのオヤジの日課なんだろう、きっと。一羽の鳩が愛想を振り撒きながら俺の足元に近付いてきた。俺は太った鳩を見ながら、鳩肉の料理ってあったよなー、なんて事を考えていた。金が無い五日間を乗り切るため、鳩を調理出来るだろうかと真剣に考えたが、家には包丁もまな板も無かったので、俺は鳩食料案を諦めた。まさか鳩を生きたまま電子レンジに入れるわけにもいくまい。電子レンジの中で鳩が暴れて機器がショートしたりして。
 公園の中はゆっくりとだが、確実に時間が流れていった。昼食時のような殺伐とした空気から、昼寝の時間に移ったようだ。子供と大学生以外はみな木陰に入っていて、扇子で顔に風を送る人や、木陰の植え込みで横になって寝る人や、えんえんと指揮し続ける人がいた。隣の女性も本に汗が落ちないように気を付けながら、読んでいた。…… やっぱ暑いんだよな。影はやや長くなり、風は前よりも吹くようになったが、押し潰されるような暑さはあまり変わっていないように思えた。
 でもあと一万円(以下)しか持っていない俺には、ここで休日を過ごす以外の選択肢は無かった。これで喫茶店に入ったら、食事抜きの一週間になってしまう。安い定食屋で食事を済ますとしても、一食八百円くらいする。現在の予算でぎりぎり一日二食ってところだ(朝御飯はどうするんだ、俺)。銀行に定期預金は預けてあっても、解約出来るのは平日十五時まで …… って、誰が行けるんだよ、そんな時間。それに無駄使いしたからといって定期を解約していたら、もう人間失格だ(今現在で既にそうか?)。
隣の女性の携帯電話のベルが鳴った。彼女はここが待ち合わせ場所だったんだろうか。村上春樹を読んでいた女性は、アジア系の外国語で携帯に向かって怒鳴り始めた。俺はその様子をやや驚きながら見ていた。話し言葉を聞いていると、やたら外国語の上手い日本人、ではなく村上春樹が読める外国人のようだ。アジア系は見ただけじゃ分かんないよなー、と俺は思った。隣の女性は本を閉じて立ち上がり、携帯で話しながら駅の方へと歩いて行った。小説が読めるくらい外国語が出来るっていいもんだ。でも俺が他国のアジア人だったら、日本に来ないで渡米しちゃうね、…… 日本の外国人差別とアメリカの黄色人種差別と、どっちが辛いかな。まぁ、どっち行っても女性差別はあるから、一緒って気もする。
 小学生くらいの子供達は公園内を走り回っていた。この暑さの中でよく走れるもんだ。子供ってスゴすぎる。その一人がゲームボーイをポケットから取り出すと、その子を中心にして子供達が噴水の周りに集まった。もう一人、また一人と次々とゲームボーイを出して、ケーブルで繋いだり、覗き込んだりし始めた。女の子の中からすっごーいという歓声が上がった。きっと真ん中にいる女の子が持っているのは幻の新作『ポケットモンスター金・銀』に違いない。
 なんか、とっても口惜しい(いや、口惜しいなんて思っていられるような生活費じゃないぞ、俺!)。
 俺はプレイをセーブをしてから、ゲームボーイの電源を切った(ちょっと待て)。イヤホンを外し、ゲーム機と共に、ポーチの中にしまう(正気になれ、俺!)。そして帽子を一度外し、ぱたぱたとはたいて汗を飛ばし、もう一度被った(誰か、俺を、俺を止めてくれー!)。
 ビックカメラに『ポケットモンスター金・銀』を見に行ってみよう、子供達がはしゃいでいるのだから再入荷したに違いない。俺はそう確信し、自分の陣地となった西(にし)池袋(いけ)公園を出て、東口にあるビックカメラに向かった。
 小学生に遅れを取るな! 俺!

<終>

1999年7月6日脱稿。