『愛だけの関係』( 藤間紫苑 2002年)

 

私がこの家に来て、もう五年になる。家を囲む小さな庭と、低いレンガ造りの塀。塀の向こうに延々と広がる閑静な住宅街。同じような屋根の同じような建物が連なり、真っ直ぐな道路は山を駆け上り、見えなくなる。
私の部屋は床を除き、全ての壁がガラス張りで出来ている。私は隣の家の窓も、遠くを走る車の姿も、頭上を通る太陽も、部屋の中に居ながら見ることが出来る。夜は沢山の星を、一つ一つ数えながら眠る。
私がいるこの奇妙な家の持ち主は、我が最愛の人・柳沢だ。彼女と出会って、八年近くになる。私達は混雑した夜のカフェで出会った。「同席しても宜しいですか?」と、私に声を掛けてきたのが、柳沢だった。彼女が読み始めた映画のパンフレットは、私が先程観てきたばかりのレスビアン映画だった。私達は映画の話で盛り上がり、その夜、シティホテルの最上階で愛し合った。
「ホテルの最上階でも、星は見えないのね。街の明かりはこんなに美しく輝いているのに」
裸のまま窓の傍に立ち、そう呟いた私を、柳沢はそっと抱き締めながら言った。
「いつか私が貴女に、星空をプレゼントするよ」
そんなロマンチックな台詞に、私は虜になった。
私の小さなアパートに柳沢を招待したのは、出会ってから三ヶ月後のことだった。住宅密集地にある私の部屋から見えるのは、汚れた塀だけだった。私は雨戸を閉め、夜空が描かれたカーテンで汚れた窓を隠した。
「狭い部屋なの。何か飲む? ええっと……マグカップも無くって。ペットボトルのジュースでいいかしら?」
「ここは、貴女の小さな秘密基地なんだね」
柳沢は私の部屋に名前を付けてくれた。小さな秘密基地と。食器棚もオーディオ機器も無い私の部屋が、薔薇色の空間に変わっていくように感じた。
私は柳沢に夢中になっていった。
私達は互いに忙しく、会えるのは週末だけだった。私の会社は土曜出勤も多かった。土曜日に会えないと知ると、柳沢は子供のように拗ねたメールを私に寄越した。
出会ってから三年目のある日、私は交通事故にあった。私は手術し、入院する事となった。病院から事故に遭ったことを会社に告げると、解雇宣告を受けた。私は悔しさと不安と怒りを枕にぶつけながら、一ヶ月の入院期間を過ごした。
「あかり、うちで暮らすといいよ。この間、改築したばかりでね。きっと気に入ると思う」
私は柳沢の提案に縋った。私は退院し、そのまま柳沢が運転する車で、彼女の家に向かったのだった。

この部屋に来て初めての朝を、私は生涯忘れないだろう。東の山際から昇る太陽の光で起きたあの朝。変化の無い住宅街を照らす、明るいオレンジ色に輝く太陽。
「おはよう、あかり。昨日、君が車の中で寝てしまったから、部屋に運ばせてもらったよ。ここが君の部屋だよ、あかり」
私は足元から太陽が昇ってくる光景に驚いた。大きなベッドが置いてある白い床は、建物の上に敷いてあった。周囲には沢山の住宅と整備された道路があり、頭上には白い雲が浮かび、すぐ近くに雀がとまっていた。私は屋根の上に置かれたベッドで寝ていたのだ。
「……まるでスヌーピーになったみたいだわ」
「あはは、スヌーピーか。あかりらしいね」
床の上には私が居る白いベッドと、白いソファーに白い丸テーブル。そして部屋の隅には白い便器が置かれていた。
「昼間はソファーに腰掛けて、ゆっくり過ごすといい。夜になれば天然のプラネタリウムさ。
あかり。美しい君に星空をプレゼントするのは私の夢だったのだよ。ほら、ごらん。太陽がゆっくりと昇り、私達を照らす。この部屋からは毎日、日の出を見ることが出来る」
私は柳沢の腕の中で、柔らかい太陽の光を見つめていた。その光は優しく私を包み込んでくれる柳沢のようだった。
「愛しているよ、あかり」
「……感動して言葉が出ないわ」
「じゃあ、声が出るようにしてあげるよ」
そう言うと柳沢は私の体を後ろからぎゅうっと抱き締めた。
「柳沢……!」
彼女の手が、私の感じ易い部位に触れる。首や、胸や、脇や、臍や、蒲団の中に隠れた陰部へと。私は周囲を見た。雨戸の閉った窓や、カーテンが閉った出窓。街はまだ静かだった。鳥の鳴き声が聞こえてくるだけの、誰も居ない夜明けだ。
だが私は体を強張らせた。私と柳沢の関係。女同士が愛し合う、というだけで、差別する者はこの国にまだ多い。それなのに柳沢はこのガラス張りの部屋で、私を抱き締め、愛撫し始めた。私は咄嗟に柳沢の手を払った。
愛だけが私達を繋ぐ。愛だけが私達の関係を持続させる。私は柳沢の手を振り払ったことを後悔した。私は彼女の行為を拒絶するのが怖かった。
「あ……ごめんなさい。でも……!」
「不安なんだね、あかり。君は中世の魔女のように狩られる事を恐れている。
私を見て、あかり。そして朝日を。空に浮かぶ雲を。こんなにも君は世界に愛されている」
柳沢は私の顎を上に向けさせた。
私の目には澄んだ朝の空が飛び込んできた。白っぽい朝霧が徐々に薄くなり、青空はだんだんと色を濃くしていく。私はその美しさに瞳を濡らした。
「でも……でも柳沢。私、怖い……」
「大丈夫。私がいるから」
蒲団の中で、柳沢の手は私のネグリジェの裾を捲り上げ、陰部を守る小さな布の内側へと滑り込んだ。入院後、手入れをされていない私の陰毛を、柳沢は長い指で弄った。
「私達を見ているのは、空に浮かぶ雲だけだよ」
陰毛に隠れた私のクリトリス。その周辺を優しい指先が触れる。柳沢の唇が、私の首筋に触れる。
私はガラス張りの部屋で、柳沢と抱き合っていた。蒲団からは上半身しか見えないが、私達の抱擁を恋人達の愛撫以外に見える人がいるだろうか。ここは柳沢の自宅なのだ。私達が愛し合うことで、柳沢に迷惑が掛かるのだ。
「ねえ、柳沢。止めて……私、怖い」
「誰も見ていないよ、あかり。君の瞳には空しか見えないだろ?」
「違う……だってここは……柳沢の、あっ!」
ガラス張りの部屋のベッドの上で、柳沢は大胆にも私のクリトリスに触った。そして私のヴァギナにも。
「……あかり、興奮してるね。君はこの透き通る空間で、同性の私達が愛し合うことに怯えながらも、一方で今まで感じたことが無い程の興奮を覚えている。何も遮る物がないこの部屋で私に抱かれ、君は体の内側をぎゅんぎゅんに感じさせているんだ。
そう、それがあかりなんだ。君の素晴らしい資質さ。だが君はそんな自分自身に怯え、素晴らしい体を小さな秘密基地に隠してしまった。この整った美しい体を、仕舞い込んでしまった。でももう分かるだろ? 開かれた空間に置かれた君の体は、快感を感じ、さらに美しさを増すのだ。濡れた瞳、微かに震える肢体、熱いヴァギナ。ほら、こんなに濡らして……この状況に感じている」
「そ、そんな……ああっ!」
柳沢の指が、私のヴァギナの蜜を掬い取り、クリトリスに触れた。電流のような快感が私の体を突き抜けた。こんなに空は青く、白い雲が頭上をゆっくりと移動しているのに、私は柳沢の腕の中で快楽に身を委ねているのだ。
蒲団の中に隠れた柳沢の指の動きが、素早くなっていく。私は澄みきった空を見上げながら、恋人に抱かれていた。私のクリトリスの上を、彼女の濡れた指が滑る。
「や、柳沢……止めて……怖い……私……私!」
一体何が怖かったのだろう。私は未だに自分自身に正直になれない。人々の視線か。それとも変わってしまいそうな自分か。私には答えが出せない。
私はガラス張りの部屋で女の恋人に抱かれ、快楽に身を委ねながら達したのだ。これは変えようもない事実だった。
「私はこれから仕事に行くけど、君はゆっくりと休むといいよ。トイレはそこに自動トイレがある。便器の上に座るだけで吸引してくれる優れ物だ。それに着替えや食事は家政婦さんがやってくれるから心配しなくていい。何か必要があったら、ベッドに置いてある呼び鈴を押して。
あと君の携帯電話を枕元に置いておく。何か困ったことがあったら、いつものようにメールして」
そう言うと柳沢は私の唇に熱いキスをして、昇降床に乗って階下へと降りて行った。
私は白いネグリジェを着たまま、ベッドの上に座っていた。ネグリジェは私の持ち物には無かったから、柳沢が用意したものなのだろう。部屋の中にはクローゼットも着替えもなかった。
私がベッドの上でぼうっと座っていると鐘が鳴り、昇降床から二人の少女が上がってきた。彼女達はフリルが付いた白いエプロンドレスに身を包み、手に白い布を持っていた。
「お召替えの時間です」
彼女達は私の横に立つと、ゆっくりと頭を垂れた。
「失礼いたします」
そして一人が、私のネグリジェのリボンを解いた。ネグリジェは緩み、するすると肩から滑り落ちていった。私は一瞬で上半身に何も着けない姿になっていた。
「き……きゃあ!」
私は慌ててネグリジェを胸元に当てた。ガラス張りの部屋で、一瞬とはいえ、私は上半身裸になったのだ。確か昨日の夜にはブラジャーを着けていた筈だ、と思い、辺りを見回した。だが私の私物は携帯電話しか置いていなかった。
彼女達は黙ったまま、私の腕を掴み、ブラウスに通した。そしてリボンを結んだ。それから私の顔を蒸しタオルで拭き、唇に紅を塗ってくれた。
塗り終わると私のネグリジェを持ち、彼女達は再び並んで頭を垂れ、部屋から去って行った。
「あ……あの。ありが……」
私は彼女達と言葉を交わさなかった。私は悲鳴を上げ、彼女達を驚かせてしまったことを後悔した(いや、本当に彼女達は驚いていたのだろうか?)。
白いワンピースは少女趣味なデザインだった。私が一度も袖を通したことがないタイプだ。恥ずかしいデザインだ。もうこんな服を着る歳でもないような気がする。
私はベッドに手を掛けて、ゆっくりと立ち上がった。交通事故の後、手術をして、ギブスを嵌め、ギブスが外れてから一週間程リハビリをした。だがまだバランスよく立てない。
「あ…………」
フリルがふんだんに使われた白いワンピース。胸元はリボンで止めてあったが、スカートは前でぱっくりと開いたままだった。
私はリボンを探したが、飾りリボンばかりで、前を隠すためのリボンは付いていなかった。
このワンピースは私のショーツを見せるような造りになっていたのだ。
スカートの間から、私の物ではない白いレースのパンティが覗いていた。私は前を押さえながら、ソファーへと移動した。
住民の活動時間になったのか、住宅街の景色が少しずつ変化していった。全戸の自動雨戸がゆっくりと開いていく。庭のスプリンクラーが水を撒く。そして家々の車庫から車が発進し、山の向こうへと消えて行った。
前なら私も着替えて会社へと向かう時間だ。だが私はゆったりとソファーに腰掛け、ガラスの向こうに広がる住宅街を眺めていた。時間から取り残されるような焦燥を感じた。もしこの足が動いたら(もう動くではないか)、もしクビになっていなかったら(どっちにしろあの会社の社員は、私を責めたるだろう)、もし事故に遭わなければ(何故避けきれなかったのだろう)。……後悔しても何も変わらないのだ。
小さな鐘が鳴ると、昇降床が動いた。あの鐘の音は昇降床が動く合図だったのか、と私は思った。
「お食事です」
先程の少女の片割れが現われた。美味しそうなサンドウィッチとサラダ、それに紅茶を丸テーブルに運んでくれた。私は彼女に微笑みながら言った。
「ありがとう」
少女は後ろに下がり、頭を垂れると、何も言わないまま階下へと戻っていった。
今はとにかく柳沢の好意に甘えよう。私はサンドウィッチを口に運んだ。
寝て、セックスして、食事をすれば、次にくる生理は尿意だと思う。そう、私は無性におしっこがしたかった。
部屋に設置してある便器は、陶器会社の新製品だ。便座の上に座るだけで、ノズルが吸引し、洗浄するらしい。私はまだ使ったことがない。だが便器に座る前にパンティを下ろし、便座に座らなければならない。
私は周囲を見渡した。同じ屋根の色をした住宅からは誰一人として窓の外を覗く者が居なかった。それどころか庭の手入れをする者も居ない。
まるで大きなモデルルームの展示場のようだ、と私は思った。
私は便器に近寄り、スカートの下に手を入れ、パンティを下ろした。便器の上に座ると、スカートが広がり、どうしても露出した股が見えてしまう。私は少し恥じらいながら、尿を放出した。
恥ずかしい、と私は本気で思っているのかしら?
そんな考えがどうしても頭から離れなかった。柳沢はここを私の部屋だと言った。ここはきっと私のために用意されたガラス張りの個室なのだ。夜になれば、星に包まれながら眠ることが出来る。まるで草原に寝そべっているかのように。しかし隠れる所が何もない草原は、どこからでも私の姿が視認出来るのだ。
ノズルが伸び、私の股を綺麗に洗い流してくれた。なんと便利な便座なのだろう。
私はソファーに座り、軽いストレッチを始めた。膝を伸ばす、曲げる。足首を回す。白いワンピースを着ての行ないではないかもしれないが、毎日しなければならない。
足が治ったら再就職先を探さないとならないだろう。焦りはあるけれど、今はとにかく休みたい。毎日十二時間以上働いてきたのだ。残業費も無く、福利厚生もない会社だった。真面目に一日も休まず学校に行って、真面目に勉強して、やっと手に入れた就職先だった。友達の大半はアルバイトだったので、年度契約とはいえ、社員になったことを私は誇りと思っていた。特に夢もコネも無い私にとっては、やっと手に入れた就職先だったのだ。
再就職は大変だろうか。……だがその前にとにかく立って歩けるようにならなければならない。
ガラスの向こうの家々には、どんな人が住んでいるのだろう。共働きのヘテロカップルか、会社の経営者か。私のように休養している人は少数かもしれない。日中だというのに、人が居る気配はない。皆、働きに出ているのだろう。この家の主・柳沢も会社に行った。
人気の無い住宅街を見回していた私は、急に寂しさを感じた。誰も居ない住宅街。柳沢の居ないこの家。反応がない家政婦。何故私はここに居るのだろうか。私のアパートはどうなっているのだろうか。仕事は見つかるのだろうか。ああ、事故に遭わなければ、事故に遭わなければ、事故に遭わなければ。あの仕事場で私は毎日ルーチンワークに没頭できたのだ。そして秘められた週末のデート。私の幸せな人生。事故に遭わなければ続いた私の小さな人生。
……柳沢も今日だけは休んでくれたら良かったのに。いや、今の社会状況から考えて、急に二日続けて休むのは難しい事は、私も知っている。柳沢は昨日、私の退院に合わせて休みを取ってくれたのだ。親族でもない私の為に急に休みを取るのが大変なのだ。どのような理由を付けて、柳沢は私の為に休暇を取ってくれたのだろうか。これがたった書類一枚書いた婚姻関係にあるヘテロカップルならば、もっと楽に休みが取れるのに(私がいた会社は子供の高熱で休みを取った社員が、クビになっていたから、あの会社では無理だが)。
でも柳沢に会いたい。一人ではとても心細い。このソファーに一緒に座って欲しい。そして今日の朝のように、一緒に語り合いたい。目の前に広がる住宅街や、空を一緒に見て、一緒に食事したい。
ねえ、柳沢。この服は貴女が選んでくれたの? 私に似合っているのかしら。だってこの部屋には鏡もないのよ。……太陽の光が反射して危ないから? でも私は貴女にどうやって見られているか、知りたいわ。
私はソファーに横になった。足が重い。まだ本調子ではないのだろう。退院したのは昨日だったのだ。
空は水色に輝いていた。今日は雲が少ない。外を見ていると、ガラスは透き通っていて、本当に外に寝転んでいるようだった。だが太陽を直接見る事が出来るので(太陽を見ると光度が落ちて黒っぽい太陽になる)、恐らく特殊なガラスが使用されているのだろう。部屋の中には微風が吹いている。どこから吹いてくるのだろうか。私は天井を見たが、透明なガラスは、どこが穴なのか分からなかった。床を見ると端に小さな通風孔があった。きっとそこから吹いてくるのだろう。
柳沢が用意してくれた部屋は、とても快適だった。こんなに太陽が輝いていて、雲が出ていないのだから、今日はもっと暑い日なのだろう。しかし部屋の中からは、外の爽やかな景色は見えるのだが、暑さや湿度が感じられず、全て調整されているようだった。
私は目を閉じて休んだ。鐘の音が鳴り、家政婦が紅茶を取り替えていった。だが私は目を閉じたまま、彼女の足音を聞いていた。
暫くの間、私はうとうとと眠りに就いていたようだ。目を開けると、辺りがオレンジ色に輝いていた。もう夕方なのだろうか。呆れる程、寝てしまった。
住宅街は夕日を浴びて、昼間と違う雰囲気になっていた。温かいオレンジ色を反射する白い壁の海原。そこを走る家路へと急ぐ、数代の銀色の車。車のフォルムは前後に長く、柔らかい曲線で、美しかった。山際を越える車は次第に多くなっていった。その多くは同じ車体だった。今の流行りなのだろうか。
私はソファーの正面に伸びる道路を見つめた。この道路は家の正面玄関から真っ直ぐに延びて、山の向こうへと消えていく。私はふと家の周囲を見回した。その時、初めて家の周りが道路に囲まれており、そこから四方に太い道路が延びている事に気付いた。この家は道路の中心に位置していたのだ。
同じような住宅が並ぶ町の道路の真中に位置する家。柳沢は変な場所の土地を購入したものだ。
光の反射が弱まり、辺りがだんだんと薄暗くなってきた。
「ああ……!」
山際に大きな赤い月が昇ってきた。不気味に輝く赤い月は、普段より大きく見えた。なにか不吉で、それでいて惹き付けられるような赤い月。私はじっと月を見つめた。
ああ……ああ! 柳沢! 早く、早く帰って来て! 私を助けて!
だが柳沢はまだ帰って来なかった(柳沢は車通勤なのだろうか?)。一番星が強く輝き出した頃、住宅の雨戸が一斉に降りた。この住宅はコンピューターシステムによって管理されているようだ。私は次第に不安を覚え始めた。街灯はないのだろうか。玄関の明かりは。窓から漏れる光は。だがどこの家からも光は漏れず、たまに道路を走る車のヘッドライトだけが、人工の光を放っていた。
月は徐々に普段見慣れた白い月に変わっていった。私はほっとし、冷たくなった紅茶を飲み干した。今夜の月は太陽のように丸く、明るかった。十五夜なのだろうか。
鐘が鳴った。階下から誰かが上がってくるのだろうか。家政婦だったら、紅茶のお替わりを貰おう。
「ただいま」
「柳沢!」
上がって来たのは、柳沢だった。
「食事を持ってきたよ。今日はコーンとツナのスパゲッティーだよ。ちょっと、足を引いて」
私は足を少し引っ込めた。すると床からテーブルが現われた。
「柳沢、いつ戻ってきたの? 私、寂しくて……」
「ついさっきだよ。地下鉄で。この街の地下に走っているのさ。
ああ、今日は月が綺麗だ。眺めの良い部屋だろう?」
私は一瞬、答えに詰まった。確かに眺めは良い。そう、私が求めた通りに。だが……。
しかし、今の私に何が言えるのだろうか。事故に遭い、職を失った私に。柳沢は”恋人“という関係だけの私に、良くしてくれているではないか。
「ええ。とても」
私は笑顔でそう答えた。
「何か不満はない? 紅茶が無いじゃないか。そうだな、呼び鈴を二つ用意しておこう。いいんだよ、家政婦さんを気軽に呼んで。
さあ、食事をしよう」
私達はソファーに並んで、一緒に食事を始めた。
「美味しい。柳沢が作ったの?」
「ううん。さすがに仕事帰りは疲れていてね。家政婦さんが作ってくれたやつ。
足は大丈夫? 診察は次、いつだっけ?」
「来週」
「そうか。来ていただけるように、手配しておくよ」
柳沢は私を優しくだきしめながら、そう言った。
「ええ。……柳沢ったら、過保護すぎだわ」
「だって君の体が心配なんだもの。もう君の体は、君だけのものじゃないのだから。
ゆっくり休んで、二人で幸せに生きていこう」
知らない場所で、ただ柳沢と二人で暮らす生活。別に嫌なわけではない。ただ不安なだけだ。
暗い住宅街を、澄んだ月が照らし、私達の影が、床にくっきりと浮かび上がっていた。

月の明かりは五年たった今でも変わらない。住宅街はある一定の時間になると、真っ暗になり、天然のプラネタリウムになる。
柳沢は日が暮れると帰って来る。私は安心して、彼女に寄り掛かる。そして今日あった出来事を話す。途中で小雨が降った事(雨が降るとガラスに当たって、とても綺麗)。インコが空を飛んでいた事(緑色の羽をしていて、大きかった)。飛行機が飛んで、飛行機雲が出来た事(長く、細く)。
でも今日も他の家の誰とも目が合わなかった事は、内緒だ。私は昼間に、よく近隣の家を観察する。窓から顔を覗かせないか。日向ぼっこをしないかと。だがこの住宅には、蒲団を干す人も、洗濯物を干す人もいない。
そして誰一人として、私の方を見ない。見ないのか、見えないのかは、私には分からない。もしかしたらオープンだと思っているのは私一人で、本当はマジックミラーのように、向こうからは見えないのかもしれない。でももし向こうから見えていたら……。私は未だに柳沢にその事を聞けない。
鐘の音が鳴り、家政婦達が来る。もう就寝の時間なのだ。
「お召替えの時間です」
家政婦が私の背中のボタンを外す。下着を脱ぐ。そういえば服装は少し変わった。白のフリル付きのふんわりと広がるワンピースから、体にフィットしたワンピースへと。でも相変わらずレースやリボンの数は多い。
床にバスが置かれ、私はその中に入る。湯の中で私の体を柳沢が丁寧に洗ってくれる。
「美しいよ、私のあかり」
「とっても気持ちいいわ。柳沢」
私は泡を流し、湯から出る。体をタオルで拭いて、薄いネグリジェに袖を通す。
私と柳沢はベッドに入り、ガラスの向こうに輝く星を見つめる。ここから見える空は広く、幾つもの星が輝いている。地上には住宅が並び、人々が暮らしている。その住宅街の中心にある私の部屋。二十四畳程の空間。広くて狭い、私が自由に歩ける範囲。
「愛しているわ、柳沢」
「愛しているよ、あかり」
愛だけが私を支えている。

《終》